センター対策の名を冠したアレ?

バルジの戦い(参照 http://members2.jcom.home.ne.jp/invasion/Wacht%20am%20Rhein.html)60周年記念サドンストライク・マルチ対戦をやろうとした矢先に故障したパソコンが修理から復帰した。
今度こそ長持ちするようにと、愛機「孤城」と命名し、ひとまず、仕切りなおしのサドンストライクでFKを蹴散らす。
「孤城」は最近改名した我がHN城きつねを漢字化→逆転→偏変換させたものだ。本当は弧城でも良いかと思ったのだが、
「弧」というと「不安定の弧」が思い出されて、まるで米軍の軍事拠点か何かな雰囲気になるので、やめた。

さて、その復活した愛機で新生へたれ執筆を開始しようとした矢先、メッセででJTから

「日本史の近世以降を書け」

と言われた。JTと言えばつまり私にとっては氏神の神社の神主見習いと同様の立場にある男であり、その言葉はさすがに無碍に出来ない。

よって、今日はこれから日本史センター対策を執筆しなければならないらしい。
センターが明日からというのはこの際無視だ。というか、どうせ私の書いたものがセンター対策になるとは思えないし。


何故なら私は世界史専門だからな!
鎖国化してせっかくの軍事力を東アジアの勢力図に何ら反映しなかった世界史ファンにとっては不甲斐無き我が祖国の事など!!!

と、いうわけで、決して多くを、というより何かを期待しないように。

さて、日本史屋JTが昨日筆を擱いたのは、織田信長までであった。

1582 織田信長は本能寺で側近明智光秀によって暗殺される。しかし、明智光秀は中国から「大返し」で駆けつけた羽柴秀吉によって山崎の合戦で討たれる。
ちなみにこの時戦局を左右する戦術的要地となった山が「天王山」であり、どっちつかずの態度を取った筒井順慶軍が篭ったのが「洞ヶ峠」である。
ついでに、小牧長久手→賎ヶ岳の戦いで、家康・信長の遺子信雄、重臣柴田勝家らを一掃し、旧織田信長勢を一手に握ったのである。
さて、秀吉政権は織田・徳川連合が版図とした近畿東海それに中国の東部と北陸西部に信州を加えた地域を掌握し、さらなる拡大を図った。
なにせ、京都と穀倉地帯濃尾平野を抑えた上に、全国に先駆けて編成された常備軍システムを有する旧織田勢力を活用し、拡大路線をひた走る。
結果、小田原攻めで伊達・北条、四国・九州攻めで、長宗我部・島津を下し、1587年ついに戦国の世に幕を下ろして天下を統一する。(惣無事令=全国停戦命令)の発布

秀吉の全国政策は「刀狩(=兵農分離)」、「太閤検地」のふたつが有名である。というか、政略家であっても政治家ではなかったのでこれ以外にさしたる制度作りはやらなかった。
文化面ではこのころ花開いたのが「安土桃山文化
安土城大阪城聚楽第などに代表される豪華絢爛な文化である。
一方で千利休によって茶道が完成され、対照的な侘び寂び文化も発展の途にあった。

(いや、千利休、正直、嫌いですがね。ルソンの壷の話とか。底の浅そうーな人物が)

まぁ、しかし、その栄耀栄華も一瞬、「なにわのことも夢のまた夢」とばかりに露と落ちて露と消えた安土桃山時代の次に来るのが、江戸時代!!


の前に、朝鮮出兵がありましたな。
1592 文禄の役
1596 慶長の役

強大な軍事力が外征を望むのは理の当然。あながち秀吉の虚栄心ばかりをも責められぬこの戦い。つまるところは、ようやく、混迷から抜け出し、古代と同じように東アジア情勢に介入できるようになった日本が中国と衝突すると言う地政学的に見て必然ともいえる出来事。
さきの白村江、のちの日清・日中戦争のごとくに。

で、勝敗は引き分け、と言いたいところだが、朝鮮の宗主権が明に残ったので、ここは中国が既得権を守ったということで明勝利といえるだろう。


さて、秀吉が死に、後継者争いに名乗りを上げたのは、海道一の弓取り、徳川家康と秀吉の遺子秀頼。
秀頼の意を体した石田三成と家康との関が原の戦い(1600)は、家康の廟堂帷幄のうちに、つまりは事前の根回しで勝敗は決してしまったのである。
戦争で力を示し、威嚇した後、それを制度化して勝利の効果を持続させる。マキャベリが口を酸っぱくして唱えたとおりに、家康は1602年、二条城を築城、1604年に征夷大将軍につき、ついに江戸幕府を開くのであった。

で、ぱっぱっと大阪冬の陣(1614)、夏の陣(1615)で豊臣氏滅亡。

ようやく、日本の世界的に見ても特殊な時代「近世・江戸時代」に入っていく。
(近世なんて時代区分日本だけだしね〜)

ああ、ここまでではや疲れた……。
ちょっと手抜いていこう。

徳川将軍は全部で15人。しかし、重要なのは全部で家康秀忠家光綱吉吉宗家茂慶喜の7人。

二代秀忠
・遅参男
・「影武者・徳川家康」の悪役

朱印船貿易
三浦安針、八重洲

三代家光

・生まれながらの将軍。
・参勤交代
鎖国
慶安のお触書
キリスト教弾圧・島原の乱
まったくもってめちゃくちゃ正しい措置である。
カトリックなぞという植民地主義の尖兵、一人残らず殺しつくしたおかげで日本の独立は守られた。
なんか、日本史やってると「わからずやな将軍が愛を説くキリスト教徒を…」とかいう感じだが、実際は貪欲で狡猾な鬼畜米英もとい鬼畜毛唐

を殲滅した祖国防衛である。わからん奴はラス・カサスでも読め。
よくやった家光。

五代綱吉
戦国の遺風を駆逐して、平和な時代を制度化した結構な名政治家だったのだが、精一杯のママへのプレゼント+子宝祈願のお供え物「生類憐みの令」のおかげですっかり評判を落とした。
でも赤穂浪士討ち入りの裁定はさすがと言うべきか。
聖堂を湯島にうつし、昌平坂学問所を付設。(東京大学発祥……ってかなりこじ付けじゃないかと思うんだけど……)

この人の頃興ったのが、元禄文化井原西鶴松尾芭蕉近松門左衛門。大阪中心、町人中心のにぎやかな文化。


6,7代の時が新井白石の「正徳の治」。といってもろくな効果はなく。貿易制限で金銀の輸出を抑えたくらいか。

八代吉宗

暴れん坊将軍
大岡裁き
・公事方お定め書き
・足高の制
・目安箱
なぜか、現代まで生き残ってしまったが、本来はこれ、ご意見募集!じゃなくて、内部告発制度ですぜ。いわゆる密告の奨励。
米相場が崩れて、打ちこわしがはじめておこるなど、結局、こいつ、有能と言えたのか微妙。やる気はあったんだろうけど。なんか空回りした感じが。
これがいわゆる一連の享保の改革。財政緊縮の効果だけはちゃんと出て、収支は黒字化。

次が田沼意次VS松平定信の時代

経済官僚田沼の株仲間や印旛沼開拓などの先進的な改革は、しかし、定信さんによってことごとく潰されたのでした。
寛政の改革
だからそろそろ財政緊縮が商業活動の低迷を招くことに気づけよ。

1790 朱子学以外の学問を禁止する(寛政異学の禁)。
1792 林子平が「海国兵談」を著し、罰せられる。
   ロシアの使節ラックスマン根室に来る。

田沼の頃あたりから、ロシアがシベリアを越えて進出し、北方での日露の紛争が始まりだします。不登校ならぬ不凍港を求めるロシアとしては、ウラジオストク以南への進出は至上命題。
宿敵トルコ・スウェーデンよりは組しやすしとは見たが、いかんせん補給のおっつかない僻地であり、かつ、幕府側も情勢を把握して衝突回避に動き、全面戦争にはいたらず。

http://www.geocities.jp/napowhis01/rokouver2.html

1798 本居宣長が「古事記伝」を著す。→ナショナリズム的神話観
1802 十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著す。→日本の良治安
1808 間宮林蔵樺太を探検する。→外征・国防の基礎、情報収集
1814 伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」を完成する。→同上
1825 幕府が外国船打払い令を出す。→威嚇によって接触そのものを断ち、衝突回避を図る。
1828 シーボルト事件→スパイ事件

ここらあたりからいろんな意味で「日本」が意識され始めるころですな。まさに国際政治の海原に乗りいれようというところです。

ちなみに寛政あたりから元禄文化と対比される「化政文化」が始まります。
与謝蕪村十返舎一九山東京伝。武士向けのちょっと地味な江戸文化。元禄文化が和菓子なら、こっちは酒のつまみやね。

1832 葛飾北斎の「富嶽三十六景
1833 歌川広重の「東海道五十三次

ついに完成した「ホクサイ」「ヒロシゲ」。江戸の平和が育んだ文化の最高峰!

1833 天保の大飢饉
1837 大塩平八郎の乱
1839 蛮社の獄

そして坂を転がり落ちるように暗くなる情勢

そこに登場したのは………

水野忠邦!!



……力不足の見本のような配役だったのが徳川幕府の運の尽き。

1841 天保の改革
株仲間をつくることを禁止したり、人返しの法などによって都市に出ていた農民を村に帰させたり、倹約令を出してぜいたくをとりしまったが、失敗に終わった。

悪あがきの見本のようなめちゃくちゃ強引で逆効果な政策のオンパレード。で極め付けが

上地令。

駄目だこりゃ、とはおそらく当時の結構な数の人間が思ったに違いなく。

そして、ついに浦賀沖に現れたのが、

マシュー・ペリー提督

で、幕末。

疲れたので、幕末以降は「新撰組!」、「壬生義士伝

→「日露戦争物語」、映画「203高地
→映画「226」映画「軍閥
→映画「トラトラトラ」「加藤隼戦闘隊」

あたりを参照してください。

逃げるな、と?





明日引越しなんです!午前九時に赤帽来るんです!!昼以降にガスも電気も水道も止まるんです!!!

荷造りさせてください……。